<「魚釣り文化講座」 特別講「目高釣りの部」>

 

1.究極の釣り

 

目高(以下・メダカ)釣りは“究極の釣り”だと申します。

遊びとしての魚釣りの面白さを突きつめてゆくと、どうやらメダカ釣りに突き当たるようです。
江戸時代から、日本の釣り人は、そう思ってきました。

 

遊びは、仕事の対角にあって、生き死の糧を得るための労働(仕事)とは別のもの。

が、しかし、

仕事が大切で、遊びは、余分のことかと言うと、そうでもない。
遊びと仕事は、人が生きる上で、車の両輪のような相互依存の関係にある。

 

“あの可愛いメダカを水槽に飼って、釣って遊ぶとは、とんでもないことだ”

と、お考えのお方が多いのではないでしょうか。

なにせ、メダカは、日本人の心の奥に、あの“メダカの学校”の歌と共に、
ある種の郷愁となって深く根付いておりますから。

 

小学校の理科の教材でメダカの飼育が取り上げられているようです。

教室のなかの水槽で飼うらしい。
これが、やがて、各家庭へ広まって、家族全員のペットとなってゆく。

昔の、水田に泳ぐメダカとは少し違った感覚ではありましょうが、
考えようによっては、昔にましてペット化は進んでいると言ってよい。

このメダカを、貴方・お父さん!

子供の前で、絶対に、水槽から釣ったりしないでくださいね。

こんなことをしたら大変なことになる。

わたし、メダカ釣りを、広めようとしておりますけれど、実は、このことが一番気がかりであります。

 

わたしは、メダカ釣りを若い人に勧めたいとは思いません。

むしろ、60歳以下の人は、ご遠慮願いたいと思っている。

これは、子育て中の若いお父さんがする遊びじゃない。若い人が、部屋へすっこんで、ひがなメダカ鉢に向き合う図なんぞは、あまりかっこいいとは思わない。

 

年取って、社会の第一線から退き、静かな第二の人生を送るようになったら、

そう、閑暇をもてあます様になったら、

これがとてもすばらしい、遊びになるのではないでしょうか。

まず、

小さな宇宙をメダカ鉢のなかに作ります。

できるだけ簡素でありながら、しかし、凝ったものがいい。

鉢は景徳鎮の小鉢かなんぞにしましょうか。中に胴炭(菊炭)を組みます。
その隙間に石菖(菖蒲に似た多年草)を植え込む。水を張り、メダカを放つ。

凝ってますなぁ〜、これを昔の人は石菖鉢といいました。

石菖鉢は、今でも、冬の夜の茶席「夜咄」の、床の間の置物に使われるものであります。

放つメダカは、せいぜい5〜6匹程度がよろしいでしょう。オス・メスを入れます。

鉢は日の当たる場所に置きましょう。毎朝、耳掻き一杯程度の餌を与えます。

で、気が向けば、メダカと遊ぶ。

魚釣りです。昔、達者だった頃の、磯釣りや船釣りなどを思い出しながら…。

 

究極の釣りであります。

釣りのエッセンスがここに横溢している。

釣ったメダカは直ぐに、もとの鉢へ戻します。絶対にメダカを手でさわってはダメ。メダカを絶対に傷つけてはダメ。

釣りハリをメダカに掛けてもダメ。メダカを傷つけますから。

餌だけを咥えさせます。メダカが餌を咥えたら、竿を立てる。
メダカは瞬時宙を舞って、ポチャッと水面に落ちる。ここまでの釣りです。

 

昔、太公望は、渭水のほとりで釣り糸をたれました。

が、糸先にハリはつけなかった。

それでも彼は周の文王を釣り、はては殷を討って天下を取った。

張志和は唐中庸の人で悠悠自適釣りを楽しんで過ごした人だ。

彼は、針に餌をつけなかった。真に“釣りの趣”を釣ろうとしたからだ。

 

何度も申しますように、メダカ釣りで大切なのは、メダカを傷つけないことです。

小宇宙のなかで、メダカと遊ぶ。これがメダカ釣りの核心です。

ご老人たちが、鉢に泳ぐメダカと、
釣りを通して会話し、生き生きした余生をお送りになること、わたし、心から願っております。