“遊び”と“魚の命”  

 

飲む、打つ、買う、をやり尽くした人が、最後にのめり込むのが魚釣りだそうな。
これを称して、“魚釣りは道楽(遊び)の突き当たり”という。

釣り好きな者が、皆一様に、飲む、打つ、買う、をやり尽くした者等かというと、そうでもない。
わたしのように、前三つには、からきし意気地の無い者もいる。
が、魚釣りやってりゃ、前三つに、戻り入門したいなんて思わない。

 

その道楽の、遊びの、突き当たりの釣りの内でも、メダカ釣りは、“究極”の位置。

だがしかし、“わしゃアジ釣りかなんぞの方がエエわい”と、いうのが、大方のご意見じゃないかな。

だって、アジは美味しいもの。メダカは食えんもの。

 

釣って食うための魚釣りは、純な魚釣りとは言えないかもしれない。
が、釣りには、釣った魚を食べるという楽しみもある。これを非難しても始まらない。

釣ったのは食べるのが礼儀。
食べもしないのに、“遊び目的”だけで魚を釣るのは自然の命への冒涜だ、なんて考えもある。

 

「メダカは釣るけれど、決して傷つけません」と、言ったって、そりゃ言い訳だよな。

メダカにしたらいい迷惑には違いないのだから。

メダカ釣りは、“強者が弱者をいたぶり遊ぶ典型的な図だ”と言われれば、グの音も出ないですよね。

 

で、以下、

遊びと、魚の命の関係についての、屁理屈講義。

 

 

1.“遊び”について、 

<“遊び”は、豊かな人生を送る上で必要欠くべからざるもの>

「遊び」は「仕事」の下位にあるべきものと、だれが決めましたか?

仕事は生きるための糧を得る手段だから、おろそかにするわけにはいかん。

月給もらわないと食ってゆけない。仕事は生活費稼ぎに直結しておる。

わたし、このことに、なんら異議を唱えない。

だがしかし、

“生きるための糧を得る”と言うときの“生きる”という意味。あなたはどう考えておられますか?

飯を食うってことは=命をつなぐためって事?

子供を育て、できれば上の学校へも進学させたいってこと?

TVや小型車を買いたいからってことかな?

要は

人間らしく生きるためってことじゃなかったですか?

それなら、遊びは、大切な要素でしょう。

仕事に先んじて、まず人間らしい生き方を求めていたわけだ。

よ〜く、考えれば、遊びは仕事の下位じゃない。むしろ上位。

遊びを取るか、仕事を取るかでは、遊びを取る方がむしろ人間的だと思われませんか。

冒険家の多くは、仕事を休んで旅に出る。遊びの方を取っている。

武士は食わねどら爪楊枝(高楊枝)。

定年退職し、仕事から遠ざけられたら、年寄りはどうしたらよろしいのか?

“遊び”の、根源的重要性が、わかっていただけたかな?

なに!まだ、わからん?

よわったな

 

2.“魚の命”について 

<魚の命を、遊びのためになら、奪ってよいのか?>

魚の命も、人間の命も、命ということでは同じでしょう。

わが国は、基本的には仏教思想の国ですからね。
根っこに“山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)”の考えがある。
いたずらに魚の命を奪う魚釣りは、好ましい遊びだとは申せない。

因果応報とも言いますね。

今、釣ったこの魚は、因果が巡って、あるいは先年亡くなったオトッツアンの生まれ変わりかも知れん。
このように考え・教えた仏教説話は実に多い。

実際に、魚釣りをしていて、ふと、釣った魚に亡父の面影が重なったりしたら、
なんぼなんでも出刃で魚の首根っこを刺すわけにはいかん。
魚の命を、遊びのために奪ってよいのかどうかの話とは別次元の話だ。

 

ところで、

先に、わたしは、“遊び”は、“人間らしい生き方”をする上で必要だと言いましたね。

“遊び”を、よォ〜く考えれば、“人間らしい生き方”に必要な要素だと言いました。

要は、比較の話です。

“遊び”>“魚の命”、

この方程式が成り立つか否か。

魚の命を奪うことに焦点があるわけじゃない。

魚釣り遊びをする、この結果、魚が天国行ったわけだ。
いわば未必の故意だ。食うのは魚の成仏を願ってのこと。許されてよいのじゃないか。

もちろん、命を奪わず、リリースして、それで魚釣り遊びが堪能できるなら、それがよいに決まっている。

命を奪ったとて、食うわけでもないメダカなどは、そっと放してやったらよろしい。
ポチャッと水面に落ちて、後、元気に泳ぐメダカを見るのは、楽しいですよ。

 

仏教思想ですけど、

要は“空”の思想です。今、ここに、自分が居て、魚を釣っていると思うのは、錯覚であって、
自分などと言うものは初手からどこにも存在してない。
魚を釣ると言ったって、魚そのものの存在も空。釣る、なんてことも、空。
なぁ〜んもかも、実態は空。スッカラカンで、なぁ〜んも無い。称して、すべては、無だ、空だ、という。

そういう、思想のなかにあって、人は、四苦八苦しながら生きている。

業にまみれて生きている。

四苦八苦すればするほど、業にまみれればまみれるほど、実は人間的な生き方であると言って言えなくも無い。

魚釣って、その魚食って、生き生きした人生楽しむことができれば、それが最高。

だが、魚釣りの相手が、メダカの場合は、特に殺す必要も無い。
寸時釣り上げて、ポチャッと水中へ戻すとしよう。

いわく、これこそが、“究極の釣り”だぁ〜。