きっかけとか、発端とか、それらが発現するにいたったより根源的な気分というか雰囲気というかのものがあるのではないか。
もしあるとすれば、その在り様をしっかりとらえてみたい。
魚釣りというのは、きかっけ遊びだと思う。
静かだった竿先が、魚信に震えたとき、世界は一変する。
きっかけ、発端を、形に現すと、竿先のコンコンかな。
このコンコンが現われる、以前と以後とでは、まるで世界が違ってくる。
このコンコンを、わが物としたいがゆえに、この転位の瞬間のなかにこそ身を置いてみたいがゆえに、釣り人は釣り竿を持つ。
もちろん、釣りには、いろいろな楽しみ方があって、コンコンが釣りだなんて極言は妥当じゃないとのご意見もあるだろう。
が、しかし、ここにひとつのポイントがあることは、間違いはない。
いわゆる入れ食い状態のときは、コンコンを待つということがない。
入れ食いの時は、変化は既に既存のもの、転位後の世界の、追認遊びとでもいうべきもの。
これはこれなりにおもしろい。パチンコのフィバーみたいなものか。
メダカ釣りをやっていて、想うのは、これは、空想の釣りだということである。
実際の釣り、と、空想の釣り。
魚を得る釣り、と、釣趣を得る釣り、
メダカ釣りでは、メダカを、実際に釣ってしまったのではおもしろくない。
あの小さな魚に、釣鈎を本当に掛けてしまったら、メダカはすぐに死んでしまう。
メダカいじめになってしまう。
メダカには、鈎に刺した餌の端だけを咥えさせる。
それもごく少しだけ咥えさせ、すぐに離させたい。
あるいは勝ちを彼に譲って、食い逃げさせたい。
餌をしゃぶらせるくらいで我慢する方が後味がよくて楽しい。
それで釣れたことにしたい。メダカが受ける衝撃はこれでだいぶ薄らぐのではないか。
空想の釣りである。魚を得ようとするのではない。釣趣を得ようとする釣りである。
思えば、
釣果無くして家路に就くとき、釣果が無いからって、無駄な釣りだ、一日を無為に過ごした、なんて思ったこと、わたしは一度もない。
逆に、大漁で、魚の処分に、頭をなやませつつ帰路につくこと、これが悩みである。
石菖鉢に泳ぐメダカを一日眺め暮らす、そんな釣趣に特化した釣りがあってよいのではないか。
ちょっとした、心延(こころばえ・風情の意)に、メダカ竿を脇へ置いてみよう。
実は、江戸和竿の正統派で、東京にお住まいの某竿師が、かつてメダカ竿を作ったことがおありらしい。
そう聞いて、師に、注文制作が可能かどうか、ぜひお尋ねしてみたいと思っているところである。
仲立ちを、その竿師に面識をお持ちのB氏にお願いしているが、実現未定だ。
名だたる竿師の思い描く釣趣とは、どのようなものだろう。
どのような竿なのだろう。
タナゴ竿はいくつか観た事がある。触ったこともある。
でも、あれは、メダカ釣りにはいまいち適しない。
もっと野趣豊かで、繊細な、柔い竿が欲しいがどうなのだろう。