遊びの本質                                   

 

“遊び”は、“仕事”の下手に置くべきではない。

遊びと仕事は車の両輪。

どちらかと言えば、むしろ仕事より遊びを優先すべきだ。

これが、わたしが、かねがね主張してきたこと。

 

が、しかし、

こうフリーターが多くなってきては、

こう高齢者が多くなっては、

年来の主張を、少し軌道修正したくなってきた。

キーワードは“責任”。

 

仕事は、

そう、生活費稼ぎの働きは、お金を貰う代わりに、与えられた作業(責任)をはたすこと。

一定の作業を上手くこなしたら、雇い主は更なる責任を押し付ける。雇われた者は、それを出世と心得、より大きな責任に取り組む。

 

一方、遊びは、

生活費稼ぎに無関係な、働きだ。

昼寝や、単なる出不精や、呑んだくれること、これは遊びじゃない。

そこには責任がない。

なんら責任の無い勝手気ままは、わたしは、遊びとは言わぬ。

体調が悪くどうにもならぬ状況下ならいざ知らず、人間は生きる上で果たすべきある種の責任を負っている。

 

遊びに付帯する責任は、生活費稼ぎのための、いわゆる“仕事”に就くだけでは果たし得ない種類の責任。

わかりやすく言えば、

自治会で決められた地区の公園掃除日には、仕事を休んででも参加し、地区の皆さんと歓談しつつ公園掃除をすること。当然無報酬。

あるいは、

好きな魚釣りに精を出し、できればこの楽しさを、未だご存じない方々へもご紹介しようとするなどのこと。紹介せぬまでも、

ルーチンワークに阻害された没個性的生活から、趣味をとおして自分を取り戻し、より人間らしく生活すること。これって、人としての潜在的な使命でっせ。

と、いうことは、

遊びには、“人間らしく生きる”という、途方もない責任があるってこと。

 

フリーターをせざるを得ない、いろいろな状況があろうと思う。

が、しかし、もしフリーター諸君が、税金や、年金の掛け金を納めずに、“自分は自由だ”と思ったりしていたら、そりゃ間違いってもんだ。

世知辛く、住み難いシャバ社会ではある。だが、現実のシャバを離れて、あの世行っても、なんとかの沙汰も金次第と言いまっせ。

納めるべき金は所定の場所へ納めるべきだ。

他人の金をあてにするなどはもっての他。それが、たとえ親のスネであっても。

 

高齢者。すでに会社を定年で退職し、働くに働けない方々。

心身が衰え、介護制度のお世話になるしか生きるすべが無くなった方々。

わたし、その入り口に住まう者。

2015年には、夫婦のみの高齢者所帯は1千万所帯になるとか。

わたしその頃、75を越えておる。かみさんもほぼその年齢。

われわれ夫婦は、自立した生活にいつまで耐え得るのだろう。

切羽詰って、どうにもならなくなったらどうしよう、と、それを考える毎日である。

せめて、それまでは、遊びの世界で、しっかりと責任を果たしたい。

これって、稼ぎ仕事より、きついところがある。なにせ、全力投球が求められる世界。

“人間的に生きる”

これほど難しいことが、この世にあろうとは思われぬ。