究極の意  

 

わたし、お年寄りに、メダカ釣りを推奨している。

が、だからといって、四六時中わたしメダカ釣りしているわけじゃない。

釣り上げられるのはメダカだって嫌らしいから。

たびたび釣りの相手をさせたメダカたちは、鉢を覗き見ると水草の陰に隠れまわると、かみさんからきつい抗議がある。

で、ローテを組んで相手させるが、これが、また、かみさんの気に入らないところ。ひつこく、イジメているように思えるらしい。

 

ものは見方であって、わたしがメダカを見る目はだいぶ違う。

メダカらは、ふだんは粉末の餌しか与えられていないが、釣り餌はご馳走の赤虫だ。うまくゆくと赤虫をかすめ食えるといった楽しみがある。

鉢の上に釣り竿が見え、赤虫が見えると、メダカ等は先を争って餌をねらいに集まってくる。まさか水面から飛び上がって餌を取ることはないが、餌の下にワッっと集まる。いじけてなんかいるものか。嬉々として集まる。

 

釣るといっても、メダカにハリを掛けるわけじゃない。メダカがハリに付けた赤虫の先を咥えると、ツッと竿を立てメダカを宙に舞わす。舞わせ得るとわたしの勝ち。反対に、餌をハリからもぎ取るとメダカの勝ち。咥えた赤虫をツルツルッとすすり食うときのメダカの嬉しそうな顔。

メダカは嬉しそうに食いますよ。食った後、ツッ、ツッと泳ぐ様がいかにも得意気に見える。

 

交流。

生きることは、常に何かと交流することじゃないか。

わたし、魚釣りが好きだから、荒天で沖へ釣り行き出来ないときでも、部屋でメダカを眺めていたら気が晴れるし、ヨッシャ釣ってみてようと思ったりする。釣り竿持ってメダカに対すると、けっこうメダカとの交流ができて面白い。

自家菜園を楽しむ方々は、きっと魚釣りとは一味違った、畑の野菜との交流があるのじゃないか。

囲碁やパチンコが好きなお方は、ゲーム中、盤やパチンコ台を睨みつけ、それなりの心の動きがあって、これが生きがいにもなり得ているのではないか。まぁこれも交流の一種かな。

サラリーマンOBですけど、意外と、この交流の世界が狭いようですね。

それも、交流の機会を、自分で閉じているお方が意外と多い。ダメだなぁ〜、わたし、こういう方々に、是非めだか釣りをお勧めしたい。

 

これって、バカバカしいほど、単純な遊びでッせ。

でも、すごいエネルギーが、秘められた遊びです。

メダカを釣って、ショックを感じないお人があろうとは、わたし、思えない。

生きる気力をなくしたお年寄りには、まわりの方が、メダカ釣りの、きっかけを作ってあげてください。

鉢(水盤)は、2〜3千円で結構おもしろい物があります。

メダカは1匹15〜30円。5〜7匹も泳がせば充分。

ただ、眺めるだけでもよろしいし、鉢に、そっとチッチャな釣り竿を添えてあげることができたら最高だ。釣り竿たって、なぁ〜に、竹ほうきの先を折り取って作ったものでエエのです。

鉢に泳ぐメダカを見る。側に置かれた釣り竿を見る。

釣り竿を手にしてみようという気持ち。この気持ちの動きこそが値うち物です。

餌だって、なんでもよいのです。ご飯粒を付けたりしてもよろしい。

そっと釣り糸を垂らすのです。釣れなくたっていい。とにかく釣り糸を垂れてみる。

気持ちは真っ直ぐ前を向いていますよ。寝たきりで天井バッカ見ているのとはわけが違う。

 

めだか釣りはね、単純なのです。

こんなのに夢中になって朝から晩までメシも食わずにがんばるなんぞはあり得ない。

すぐに飽きます。

めだか釣りはね、気分です。発心です。

スタート。究極のスタート。そして究極のゴール。

人間らしく日々を過ごす(老いを過ごす)に用いる起爆剤。

「究極の釣り」の意には、こういうこともあるわけです。