“めだか釣り”の歴史とサイト開設の目的
<サイト開設の目的>
めだかを石菖鉢に泳がせて観賞するのが流行ったのは、江戸は文化文政期頃からじゃあるまいか。
この頃から、目高を釣るのが、究極の釣り、粋な釣りだとされたみたい。
その後、目高釣りはすたれ、最近はだぁれもやらないけれど、
当サイトの管理人ゆりたろうと、波平が、たまたま試みてみたら、めっぽうおもしろい。
世の閑人、老人、病中退屈をかこつ者等にうってつけだぞ!
さてこそ、
魚釣りをもって、高齢化社会のジイチャン元気回復に、福祉向上に、一役買おうじゃないか、
これって、国民の健康及び豊かな情操の増進を図るにも役立つじゃなかろうか。
と、まぁ、こんな感じで、サイトを立ち上げました。
オモロイのなんの、ストレスなんぞ、どこ吹く風ですぞ!
<釣りの歴史>
1.第1期
関が原の戦(1600)から、ほぼ百年後の1702年、浅野の遺臣ら47人が吉良邸へ討ち入った。
くしくも、吉良上野介の次女・アグリは、本邦初の本格的釣り師・津軽の殿様4千石の旗本津軽采女の妻。
この津軽の殿様が、日本で最初に、魚釣りの本「何羨録」を書いた人。
討ち入りの翌朝、釣り師・津軽の殿様は、釣り竿かついで(?)吉良邸へ駆けつけた。
吉良邸は散々な様相だったらしい。
2.第2期
それから、また、百年くだって世は文化文政の時代。
将軍綱吉の生類哀れみの令が解けてちょうど百年たったころ。
江戸の巷に泰平謳歌の退廃ムードただよって、これが文化の花を開かせた。
式亭三馬の「浮世風呂」(巷の出来事をあれこれ面白おかしく書き連ねた)が大はやり。
東海道中膝栗毛の十返舎一九、小林一茶、広重の東海道五十三次、滝沢馬琴らが活躍。
と、「浮世風呂」のなかに
「石菖鉢の目高なら、ずうてぇ相応なボウフラを追いかけてりゃ云々」のひとくだりがある。
“石菖鉢”は、茶道、冬の茶会・夜咄の床の間の置物。ローソクの油煙を吸い取り、空気を清める作用がある。
<メダカ登場>
メダカの方言は全国に散らばってその数約5千。メダカは、わざわざ鉢へ移すまでもないどこにでも居た小魚。
釣りの歴史進んで、頃は第2期またっだなか、江戸文化に「粋な生き方」が登場。
小鉢のなかに胴炭を組み、その隙間に観葉植物・石菖を植え、これを石菖鉢と言った。
ここに水を張りメダカを移し泳がせ、眺め観るのがはやったみたい。
そのなかに、釣り好きが居たのですね。観るだけじゃつまらん、釣ってみよう。
オオッ!
これって「粋な釣り」じゃねぇか!